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生態園の昔から今

1971年頃の御手洗池付近

1. 太古

紀元前4,000年前

人間が住み始めるはるか昔(12万年ほど前)、相模湾が関東平野まで入り込んでいました(下末吉海進)。その後、海は引きましたが人間が住み始めた縄文期には再び小規模な海進(縄文海進)があり、この辺りは入り江だったようです。付近に茅ヶ崎貝塚、堺田貝塚などがあるのはそのためです。こうした貝塚のほかにも人間の暮らしの痕跡がこの地域には多数存在しています。生態園内には縄文時代早期と中期の遺跡が確認されています(*1)。東山と西山の尾根に集落や炉、猟場(落とし穴)、どんぐり等を蓄えた穴と考えられる址が見られたそうです。1万年近く昔、人々はここでどんな暮らしをしていたのでしょう。

大塚・歳勝土遺跡

2. 昔

1926年-1964年

時は大きく移り、昭和になると東急東横線が開通するなど横浜北部地域でも開発の時計の針が動き出し、1964年には新幹線の開通と共に新横浜駅ができました。しかし横浜北部地域はまだまだ田畑が多く存在する田園風景のままでした。もちろん生態園付近も山林や田畑があるだけで民家もほとんど無く、現在の中原街道の前身となる路が唯一の幹線道路でした。

1963年頃の新横浜駅付近

3. 港北ニュータウン開発と公園整備

 

1965年

東京オリンピック後に始まる開発と公園計画によって、現在の生態園の基礎となる形が作られていきます。

1965年横浜市では港北ニュータウン計画が発表されました。「横浜のチベット」と呼ばれ、田畑が約半分、山林が約4割、残り1割が宅地や道路であった地区が変貌していきます。ニュータウン予定エリアの約1/2が住宅・都市整備公団による土地区画整理事業とされ、「緑の環境を最大限に保存するまちづくり」「ふるさとをしのばせるまちづくり」等を方針としています。
公園を整備するにあたっては複数の専門調査が行われ、「在来樹林の十分な活用」、「緑を中心に考える」、「市民参加の発想」、「長期的なまちづくり」等の方向性が定まっていきます。

1966年

東急田園都市線が開通
 

1969年

東名高速道路が全線開通

1981年

公園整備プロジェクトで、公害研究所(現:環境科学研究所)が、「生物の生息環境の保全」をテーマとして提起します。

1973年頃の茅ケ崎中学校付近(左)

貝塚谷戸でドジョウや貝などを採る子どもたち

(1973年撮影)吉川輝男さん提供

1985年頃の茅ケ崎中学校付近(右)

4. 生物相保護区から自然生態園へ

1984年

自然環境整備生物相保全計画調査が行われます。ここで、自然全体を表わす「生物相」という言葉が使われます。特定の生物だけでなく、自然全体を保護していこうと「生物相保護区」として鴨池公園、都筑中央公園、茅ヶ崎公園のそれぞれ一部が指定されました。水と一定の樹林が一緒に形成され、自然のポテンシャルが高いことが評価されています。
学校の先生たちと、地域の研究者が参加して「自然環境保全部会」が発足します。生物相保護区の生物調査や自然教室を行ない、調査結果と維持管理についての提言が冊子にまとめられています(*2)。
その後数年間、部会は茅ケ崎小学校、茅ケ崎中学校科学部、新栄高校、モルフォ生物同好会等と共に、希少生物の移植・移入、水路整備、生物調査、観察会などを行っています。生態園における保全や環境活動の始まりです。

 

1991年

公団による柵や観察路、法面緑化、池の護岸整備が行われます。


1992年

生物相保護区として柵で囲われていたものの、自然そのものは外来種侵入やゴミ投棄などで荒れた状況が進んでしまいました。この年、前記部会メンバーの先生が茅ケ崎小学校に着任し子どもたちと共に清掃や観察、ザリガニとり、荒れた湿地の開墾などいろいろな活動を展開。 
また一方で、公園施設としての安全を図るため、再整備についての協議が横浜市と進められていきます。

 

1999年

再整備に向けて、茅ケ崎公園生物相保護区は「自然生態園」と名称が変わります。自然生態園とは、都市公園法に準じたもので「自然の状態を保全し、生物とその環境等について観賞、観察することのできる施設」とされています。
茅ケ崎小学校に「茅ヶ崎公園自然生態園管理運営委員会」が発足します。池デッキなどが整備され、かいぼりも行い、折々に開園するようになりました。

 

2002年

委員会の主体を小学校から地域住民に移します。横浜市から管理を受託し、翌年から土日祝日に開園するなど今の体制が始まりました。

*1 1971年 ニュータウン文化財調査団による溝掘調査。 
*2 『港北ニュータウン地区 生物相調査研究参考資料 No.4』(横浜市都市計画局)

 

参考
『この街はこうしてできた』 プレ・第2回ヨコハマ都市デザインフォーラム講演会録 
『感じて知って語ろう「生態園」』 茅ヶ崎公園自然生態園管理運営委員会

 

2019年の御手洗池付近

5. 昔から住む方のお話

こうした記録に残る歴史のほかに地域に長く暮らす方々のお話しから開発前の様子を伺い知ることもできます。

次のようなお話しをお聞きすることができました。

生きもの:

カエル、イタチ、キツネ、タヌキ、ノウサギ、虫やけものがいっぱいいて、キツネに化かされることもあったそうです。
 

雑木林:

8年から10年に1回くらい木を切り土がみえるくらい草をきれい刈って、大きい木は松や杉だけという風景が広がっていたそうです。
 

谷戸田:

奥深く、夏の夜には蛍がたくさん飛ぶ田んぼが10数枚もありました。ことし79歳の男性は子どもの頃、田んぼで牛の鼻を引いてしろかき(田の土を耕す作業)を手伝っていたそうです。マムシも多く、夏の草取りは一番嫌な仕事だったといいます。 

湧水:

谷戸田は正門から西に向かう園路にも続いていました。その最奥(西門の外)には水がこんこんと湧いて「カマ湧き」と呼ばれ、飲み水を汲みに来ていた方もいたそうです。
 

池:

御手洗池は茅ケ崎と勝田地域にあった4つの溜池のうちの1つです。子どもが泳ぎに来ていました。「きれいな水だった」「ここで泳ぎを覚えた」と聞きます。また、下流の田んぼにとっての大事な溜池で田植えの頃には水門をあけ、1週間かけて水を流しました。そのときの様子を94歳の女性が次のようにお話ししてくださいました。

「お水をね、1年に1回、掻い出ししたでしょう。それがみんな耕地のほうの田んぼの植田(ウエタ)のときにそれを全部使ったんですけれどもね、そのとき、お水が来るっていうのでね、耕地はもうほんとににぎやかに、あそこもここもって。みんなどこのうちも出ましたから。そういうときのお茶受けはね、おにぎりが多かったもんで。お米のご飯のおにぎりが、もうどこでも大体用意して。みんなで田んぼで、よそからお手伝いがきて、5人10人ていますから。(中略)お米のご飯。間(その日以外)はもうお粗末ですからね。だからお水が来るときは、すごい威勢でね。」 
賑やかな風景が目に浮かびます。そして、池では水を流した後に底から出てくるウナギやシジミ、カタッケ(貝)を採って食べるのも楽しみだったそうです。

人々が自然と共に暮らしてきたこの地域に開発施策が講じられ、公園の形を模索した多くの方々のご尽力が繋がって今の生態園があります。1970年代には子どもたちの自然離れに対する憂慮が広がる中、公園整備プロジェクトでは「生物が生息する緑こそ本当の自然」、「子どもが自然と接するには色々な局面がある。採集し殺してしまうこともある。その上で繁殖のための保護も必要」等の議論が交わされ、「生物の生息環境を保全していこう」とテーマが打出されています。
自然を大切に保全していくことと、子どもたちの自然とのふれあい、この2つはこれからも私たちの活動の主要なテーマです。

2019年9月28日作成

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